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 ワタル2のBlu-rayが発売された2014年6月以降、「終わりなき時の物語」を自分でも引くぐらい繰り返し観ているわけですが、観れば観るほど謎だらけで頭が「?????」状態になっているので、これを少しでも解消したい…!とまたしても自分だけが楽しい妄想を繰り広げてみました。ワタルに関しては以前に「救世主に纏わるエトセトラ」という雑記で少し触れたので、今回は虎王について。絶対こうに決まってるわ、というのではなく、まあこんな考えもできるのか、程度にお読みいただけたら幸いでございます。

1.何故、虎王がワタルを呼びにきたのか
 創界山に危機が訪れた時は基本的には龍神丸が迎えに来るのに、今回は虎王なんですよね。そもそもこれが何でなんだろうと思ったわけです。龍神丸が来られなかった理由は崩壊寸前の創界山を支えていたからだと思うのですが、神部界の皆がワタルに来たことに対して驚いたり、「どうやって来たのか」と尋ねるということは、「救世主を召喚する」意志は、実は神部界ではなかったのではないか。じゃあ誰がというと、天部界の意思だったのではないか。神部界が侵攻されたら天部界にも危機が及ぶわけで、現に、魔界と扉一枚で繋がっていた創界山が既に半壊しているのだから、これを迅速に食い止める為には、神部界で救世主と成るワタルが必要だった。
 では、どうやってワタルを呼ぶか。天部界の意思をどうやって現生界へ伝えるか。その役割を担えたのが虎王。この時点での虎王は、翔龍子の身体から離れて魂だけで浮遊していたと考えられますが神部界の皇子である立場は当然あるし、それと同時に、虎王は大龍皇帝と婀娜の子かもしれないという天部界の王家の血を引いている可能性を背負っていることもあるので、ワタルを呼ぶ為には、神部界にとっても天部界にとっても適役だったのが虎王しかいなかった。なので、魂を実体化させて(これについては後で触れます)現生界へワタルを呼びに来た…けど、私はこの虎王は天部界の「媒体」であって、本当の虎王ではないのではないか、と思ったりもしてます。(わざわざ「本物の俺様」って言うのも不思議だし)

2.虎王の存在
 で、これです。先に結論から言ってしまうと、「終わりなき」での虎王は総て実体ではないのではないか、ということです。この物語の時は翔龍子と虎王は1つの存在であるという前提があり、魔界の邪気にあたった翔龍子から虎王の魂が抜け出てしまった、ということなので、ワタルに「俺様がついているぞ」と語りかけたあれが神部界で浮遊している本当の「虎王の魂」なんだと思います。
 では、魂の状態である虎王が実体を持てる条件とは何か。第1話で現生界へワタルを呼びに来た時、第2話で天部界の龍遣いの谷で姿を現した時、第3話で再び現生界へ来た時、共通しているのは「白龍馬」の存在。白龍馬は天部界の龍の王である「拳龍」が天馬に姿を変えた馬なので、傍に居ることで魂を実体化できる力があるのでは、と考えました。とはいえ、前述にもあるように、第1話の虎王はあくまで天部界の意思を伝える為の媒体、つまり「本物の虎王ではない」と思うのは、第2話でワタルと会った時に虎王の反応が、神部界で浮遊していたはずなのに何故ここに居るのか、という感じであり、ワタルに久しぶりに会えて心の底から嬉しいという気持ちが表れていたので、魂の状態だった虎王が実体化してワタルに会ったのは、この時が最初なのではないかと思ったわけです。余談ですが、第1話で現生界に来たペガサスは拳龍そのものが天馬に姿を変えて、救世主=拳龍子を召喚しに来たとも考えられるかなあと思っております。
 そして、第3話で扉を封印する為に虎王が残ってワタルと白龍馬を帰させる。白龍馬が去ったことによって虎王の実体は氷に封印される間際に魂の状態に戻り、そのまま翔龍子の身体へ戻って翔龍子の意識が回復する、という流れ。この辺わたしの個人的趣味な御都合主義ですw
 で、ワタルに「必ず戻る」とは言ったものの、翔龍子の元へ戻った虎王はやっぱり実体が無いわけです。それを伝えたい強い意識が(魂とはまた違うような)白龍馬によって実体化されて現れたのがラストの再会なのかなあと思います。
故に「終わりなき」の虎王は総て実体じゃなかったと考えると、時系列的に後になる「虎王伝説」で「久しぶりに会ったね」感が違和感無いじゃないっていう。こじつけ万歳!


 多分これからも観ていくうちに「ああ、やっぱりこうかなあ」と違った考えが出てくる気がしないでもないですが、とりあえず今はこんな感じで妄想を働かせてみました。ワタルワールドに対する興味は尽きないなあ…楽しい…。





2015.02.25 更新
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2015.02.25 Wed l 雑記 l top
 雑記は基本的に独りよがりな思想の垂れ流しですが、今回は雑記も雑記、雑記・オブ・ザ・イヤーです。2015年始まったばかりだけど。

 空いている時間は好きなものに触れていたい性格な故に、ワタルのBlu-rayやCDドラマをひたすら再生することがしばしばなのですが、好きなものを見て只にやにやしたいだけなのに、約20年ぶりに再燃した2014年、ふと或ることに気付いてしまった。

 ワタルって基本悲しい。

 え?ワタルはおもしろかっこいいだよね?悲しいとは何事だ?そもそも再燃した時だって「ああ、ワタル懐かしいなあ、楽しかったよなあ」って思って出戻ってきたんじゃなかったのか。そりゃ話中では友達になった虎王と敵対したり先生が闇堕ちしたり悲しくなる要因は色々あったけど、最終的にはボスを倒して平和を取り戻したぞ!良かった良かった!…で、受け止めてたよね、当時は。勿論、子ども向けアニメとしてはそれで正しいと今でも思ってる。
 じゃあ何が悲しいのかというと、いわゆる大人になった今、どのワタルシリーズを見たり聴いたりしても、最後に待っているのは「別れ」だということ。いやいや、「別れ=悲しい」はあまりに短絡的ではないか。別れといってもあれらは前向きな別れだったじゃないか。離れていても互いを思い、きっとまた逢えると信じて生きていく。そう捉えることが人として一つ上のステージの考えのような気がしていた。
 しかし、良くも悪くも大人になってしまった私は思うのです。「前向きな別れってなんだ」と。前向きだろうと後ろ向きだろうと別れは別れだ。そこには一緒に居られないという事実があるだけなのだ。一緒にいることだけがハッピーエンドなわけではないことは百も承知だけど、一緒にいられるならそれにこしたことはないと、一周回ってシンプルにそんな結論に至ってしまった。単純って言うな。TVシリーズでは創界山との別れ、終わりなきでは救世主との別れ、CDや小説では虎王との別れ…どれを見ても悲しいんですけどー!悲しくてにやにやできないんですけどー!これほど見事な八つ当たりもないって分かってるけど悲しいんだぜー!
 小説「虎ブルドリーム」でワタル(中学生)が「虎王がいない辛さを自分の一部として生きていく」という超前向きな発言をしているけど、「虎王伝(2巻)」にワタル(多分高校生)があてもなく待つ日々に疲れてる描写があったりして、現実を知れば知るほど募る寂しさや悲しさの存在に薄々気づいてゆく、ああ、ワタルの大人になり方がリアル…と変な感心をしたりして(出版の時系列的には虎伝の方が先だから偶然だと思うけどそこは目を瞑るw)。
 
 ワタルシリーズの公式作品が世に出た順ではなく、あくまでキャラクターの年齢的な話をすると、虎王伝が一番最後に位置づけられ、その5巻(最終巻)は虎王が創界山やワタルの元に帰ろうと考えて完なので、その後の展開は明るい妄想で補い易いことが幸いです。最後の最後にやっと報われるよ…良かったよ…と思いつつ、生きる世界も時間も異なるやるせなさやもどかしさにうわああああと頭を抱えて苦悩することも実は結構嫌いじゃないっていう面倒くささを披露したところで新年早々本当にどうでもいい雑記を〆たいと思います。

 結論:妄想尊い。



2015.01.12 更新
2015.01.12 Mon l 雑記 l top
 「終わりなき」所感でも書いたとおり、ワタルのルーツが「天部界で生まれた拳龍子」という設定がとても好きでして、それに纏わるあれこれを公式設定に沿いつつ、妄想してみました。後付け設定に挑むのは楽しいです。たいてい玉砕してますけどね!


 天部界は神部界の上にあり、「逆らうことは許されない」「足を踏み入れることも禁じられている」というくらい、絶大な力を持っている世界。そんな世界から生まれた救世主となると、神部界を救うだけの力が備わっていることも、神部七龍神が救世主の下に集って従うのも頷けます。

 その圧倒的な力の差を知ることができるのが「聖龍の勾玉」と「拳龍の勾玉」です。「終わりなき」で魔界の扉を封じる鍵となる勾玉ですが、元々は「聖龍の勾玉」で封じていたわけですよね。それが魔界の者に奪われてしまって天部界にある「拳龍の勾玉」で封じなくてはならなくなった。となると、「聖龍の勾玉」は神部界のものだと推測されます。その神部界のもので封じていたときは何事もなかったのに、「拳龍の勾玉」で封じた途端、水が溢れて永遠に融けない氷になってしまう…とはいえ、その溢れた水を浴びて神部七龍神は蘇るのだから聖なる物質であることは間違いないだろうけど、神部界の鍵の代わりとして天部界の鍵を使用するには力が強大過ぎた為にあのような事になってしまった。そもそも「聖龍の勾玉」がどのように生成されるのかは謎ですが、この時は奪われたということもあるけど、もう「聖龍の勾玉」では封じ切れないほどの魔力だったので「拳龍の勾玉」に頼らざるをえなかった、ということなのかなと思います。

 拳龍子は天部界から現生界へ降りたことになっていますが、小説「ANOTHER STEP」での出生話を併せると、現生界へ降りる前に神部界に居たことになります。天部界で「アダール」と呼ばれた拳龍子は、神部界で「戦部」の姓と「ワタル」という名を名乗ります。「アダール」→「ワタル」は、国が違うと呼び名が変わる名前みたいなものなのかな。シーザーとカエサルみたいな。
 少し脱線しますが、「アダール」は「終わりなき時」の意となっており、だから「終わりなき時の物語」=「アダールの物語」=「ワタルの物語」だったんだな…と納得。
 閑話休題。「戦部」姓は神部界で過ごすための名前だと思われますが、「〇部」の姓は一族の能力を表しているので(忍部は忍者の一族、渡部は“渡り”という秘術を持つ一族)、それから考えると「戦部」は戦いの能力に長けており、しかも神部界の住人から「御方」と呼ばれ一目置かれる一族であったようです。そこからさらに下界へ、「現生界」へ降りたことになっているのは多分、クラマいわく「異世界では力を抑えられる」から。生来、神部界を救うほどの力を持っている天部界の救世主ですから、神部界では有事以外の時でも力が強すぎた。なので、現生界という異世界に降り、力を消し、神部界が危機に陥ったときだけ駆けつけて力を発揮する「救世主」となった。

 ワタルは創界山でも星界山でも「世界を救うこと」を最優先にしていました。勿論葛藤は多分にあるものの、友達であった虎王と剣を交え、魔界の矢に射抜かれた先生とも戦った揺るぎない「救世主」でした。どうして戦わなくてはならないのかと慟哭したワタルに対し「それがお前の運命だ」という閻羅王の言葉は悲しいほどに真理なんですよね。けれどワタルは己の「拳龍の勾玉」を魔界の扉を封印するために使い、救世主としての役割を終えます。訪れた永遠の平和。もう戦いに身を投じなくてもいい。そのこと自体はとても喜ばしいことのはずなのに、何処か寂しげなのは、仲間に会えなくなるという理由の陰に戦部の血の疼きを感じ取っているからかもしれない…と、長々妄想してみました。もっともらしいことを書いてるけど、戦いの神として君臨する拳龍子ワタルとか、ちょ、ちょっとかっこいいよね…!とか単純に萌えるだけですよ、はっはっは。それもう英雄伝ちゃう。



2014.8.1 更新
2014.08.01 Fri l 雑記 l top
「ワタル3」は、私がリアルタイムで追いかけていた最後のワタルです。
ラジオを聴いている当時、漠然と「これ「ワタル」だよね?なんだろう、何か雰囲気変わった?」と思っていて、「1」や「2」と違う監督さんだったことは後で知りました。

「3」のワタルの役目は「奇跡を起こすこと」でした。それは、浮遊界を救うことではなくて、その浮遊界を救える人物を目覚めさせること。浮遊界は魔界の海の上にあるので魔力の干渉が強く、その魔力に耐えられながらも良き心を持つ者…まあ虎王なんですけどね。やっぱりね。ワタルは奇跡を起こしたけど、そこで物語は終わるので結局話中では浮遊界を救うまでいってないんですよね。間接的に、奇跡起こした→虎王が浄化に向かう(で、多分救えた!おけ!)ってことなんだろうけど、やっぱりワタルの「救世主」の姿が見たかったなあというのが一番のしょんぼりするところです。

虎王は、最後の最後までほぼ記憶喪失&洗脳。2回も魔界の海に落とされてるので、ワタルのことはがっつり忘れてます。健気なヒミコに対しても酷い振る舞いをするので、苛々が募っていた私は「一発殴ってやれよワタル…」と思っていたら、ラスト近くで本当に殴り合いになってちょっとびっくりした。自分で殴れと言っておいてなんですが、ワタルと虎王って殴り合いが似合わないな。この子たちの友情はべったりか剣を交えるかの両極端の方がしっくりきます、個人的には。

虎王は思い出せ思い出せばかり言われて、「今」の自分を否定されているのが悲しかった、と。(それって普段、翔龍子がワタルから虎王虎王言われるのと通じるものがあるよね…と思ったり) ワタルは反省して「じゃあ新しく本当の友達になろう」って。どんな虎王であっても「虎王」である限り、ワタルは信じ続けるんだろうな。奇跡を起こすほど強い気持ちで。

敵キャラのノーザンタイガーは、虎王と瓜二つ設定で魔界の皇子だったわりにあっさり消されちゃったのが勿体なかったけど「俺様の胸に抱かれて安らかに眠るがいい」という名言で爪痕を残していった功績は称えます。へんなひと万歳。


「超」は、再燃してから初めて観ました。
97年当時は既に2次元に疎くなってしまっていたし、地元ではテレ東系が未開局だったので、今の今まで触れる機会が無かったのです。「1」および「2」が三つ子の魂状態で育ってきたので、「超」のあれこれに「お、おう…」と戸惑うことが多く、今もってうまく咀嚼できていないのですが、とりあえず戦部と炎部が好きです。結局ワタルなのかわたし。うん、ごめん。後は最終回の「龍神丸が僕の良き心なんだ」は好きな台詞です。
虎王はちょっとやんちゃすぎるかな。誇り高き魔界皇子の虎王さまが好きなのです。悪夢の中で手を繋ぐシーンは瞬時に萌えたことをこっそり告白しておきます。




2014.7.18 更新
2014.07.18 Fri l 雑記 l top
時系列で考えるとワタル1→ワタル2→虎伝(※2→虎伝は必ずしも繋がっているとは言えないかもだけど、とりあえず今は繋がっていると仮定)なんですが、世に出た順は1→虎伝→2なので、私が2を見る頃は虎伝の影響でワタルと虎王の友情はガチ前提で見ていたような気がしたので、あらためてワタルと虎王は何がどうなって相手のためなら命も惜しくないトモダチになったのか考えてみたくなりました。あくまで私個人の妄想ですので、その辺はご了承ください。

「1」でワタルと虎王が初めて出会って、ヒミコのこともあり何かと競い合うように。この時のワタルの虎王に対する印象は「相当の変わり者」だったけど、顔を合わせる機会が増えるとそこは10歳の子どもらしく、というかワタルらしく早めに友達認定していたと思われます。ただし、あくまで他の友達と同レベルの。
一方、虎王は箱入りお坊ちゃんだったので(ドアクダー的には元が翔龍子だから余計な情報を与えたら悪影響と思って外の世界と遮断していたのか)初めて会った同年代のワタルやヒミコのところに行くというだけで楽しそうで、決定的なのはやっぱり地下洞窟でのやりとり。自分のことを無償で想ってくれる「トモダチ」の存在を初めて知る。それを嬉しいと感じる。

しかし、お互いは敵同士だと判明。最初こそショックを受けるけど、どちらも自分の信じるものの為に戦うことを優先するんですよね。ワタルは「戦うなら1対1で」と言うし、虎王も然り。それがドアクダーの子殺し(未遂)をきっかけに戦う理由が消え失せて全てが引っくり返る。虎王にとってドアクダーは「絶対」だったはず。それに殺されそうになるという究極の状態で守ってくれたのがワタル。これが吊り橋効果に近いものがあったのでは。身を挺して守ってくれた「トモダチ」という認識が鮮明に焼付いてしまった。絶命する寸前の言葉が「俺様とお前はトモダチ」だし。
ワタルとしても目の前で邪虎丸が噛み砕かれたのを見て最後の力が覚醒したぐらいだから、非現実な出来事の連続の中で虎王に対する感情が濃くなっていったように思えます。挙句の果てに死別だもの、その瞬間に他の友達とは違う何かがワタルの心に深く刻み込まれたのかなあと。現実の世界でこれだけ苦難を共にした友達はいない、と虎伝でワタルも言ってるし。まあそれはそうだろうね…。

翔龍子に戻り虎王が「消えた」ことが、本当は納得いってなかったワタル。(これも虎伝での告白)それにより良くも悪くも執着も高まろうというもの。

そしてワタル2の冒頭。翔龍子に重なって虎王が現れるのは、今度は敵同士じゃなくて味方で、「トモダチ」として助け合いたいという虎王の強い意識のあらわれなのかと。虎王は「戦う人」だからすぐにでも行きたかっただろうけど、翔龍子は立場的に最前線で戦う人ではないからなあ。後で助けに行くことになるけど魔神もないし、雷龍剣だけ渡してどうするつもりだったんだろうと思ったけど、ワタルと会えば虎王になると予見してのことだったのかしら。聖龍妃さま恐るべし。

黒龍角の攻撃を受けた翔龍子に向かってワタルが叫んだ名前は「虎王」。以前、虎王が消えたことに納得していなかったワタルだとしたら、そう呼んだのも頷ける。翔龍子サイドで考えると可哀想なんだけど…これまで掘り下げると大変なことになるので今回はちょっと置いといて。

「虎王って呼んでいいのかな」というワタルの言葉に、翔龍子に対して呼んではいけない名前だと意識的に制止していたことが垣間見える。それでもちょいちょい呼んじゃってるけどね。制止していたものが解禁されたら堰を切った水のように加速するのが当たり前で、「トモダチだもんなっ」の肩組みに始まり→ワタルが虎王に「謝る」ことを教え→天輪峡で絆が深まり(「俺様の心はワタルのもの(意訳)」って言われたらワタルも堪らんよね)→痴話喧嘩をし(ぼく虎第二章回想)(さっそく謝るを実践する虎王…と思うと可愛い)→先生に命を狙われ(魔界シバラクの罠の回)→カラゾンの森で「俺様の命に代えてもワタルは守る」に辿りつく…。こうしてみると天輪峡での宣言はちょっとその心境早くないかと思うけど、そこは後付なので大目にみてください。魔界シバラクの罠のエピソードの位置は単に私の好みです。ぼく虎第二章が先生に似た人を追いかけた云々なので、あんな目に遭った後では追いかけられんだろうなということで。

こうしてみると創界山で芽生えた友情が、星界山で育まれて、「ぼく虎第三章」(ワタルの「会えて嬉しいよ」が相当実感篭ってる)を経て熟成されて、虎王伝説のガチな友情になる…のでは…とか考えてみました。ここで「終わりなき」を突っ込もうとするといよいよ破綻するので諦めた。

長々書いたわりに適当もいいとこ過ぎる妄想ですが、ワタルと虎王の友情は紆余曲折を経て確立したものだから若干濃いめでも致し方ないと自分に言い訳するためには整理してよかったです。自己満足。



2014.7.16 更新
2014.07.16 Wed l 雑記 l top
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